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後編:アルツハイマー型認知症、診断までの経緯【医師の診断~異変から5年後】

脳

「アルツハイマー型認知症、診断までの経緯」と言うことで、前編では認知症クリニックに行くまでの経緯をお話しましたが、後編では診察の結果や、その後の様子について続けていきたいと思います。

アルツハイマー型認知症、診断までの経緯【医師の診断~異変5年後】

父が風邪ひきで安静を強いられる中、服用量を間違えた上に、車を運転をし意識障害を起こして電柱に衝突…。それをきっかけに認知症専門クリニックを受診することに。

普段から人の言うことを聞かない頑固な父でしたが、この数々のめちゃくちゃな行動に対し、性格的な問題を越えた恐怖を感じ、有無をも言わさず認知症クリニックに連れていきました。

では、その受診の様子からお伝えしていきます。

認知症クリニックでの診断

病院

認知症クリニックを受診するに当たり、近所に開業医があったため、まよわずに予約の電話を入れました。

まず初めに、「家族から詳しく話を聞きたい。」と言うことで、娘の私だけがクリニックへ。

「どういった経緯で診察を受けようと思ったのか?」「父の日常の行動、気付いた異変」などについて、細かく聞き取りが行われました。

そして後日、父と一緒にクリニックへ。

父は少し緊張した面もちでしたが、クリニックの人たちは皆、物腰が柔らかく優しく声掛けをしてくれたので、父もホッとした様子で診察にのぞめました。

診察室に呼ばれ、まず、たわいない雑談から始まり、その流れでさりげなく認知症のテストが行われました。

テスト内容は、『名前と生年月日、日付、今いる場所などの質問、医師と同じ動きができるか、暗記テスト』などです。

30点満点中、父の点数は18点でした。20点以下だと認知症の疑いがあります。

テストと脳のMRI撮影の結果と合わせて診断されたのですが、『20数年前の脳梗塞の後遺症と脳全体の萎縮、高齢による脳の老化も見られ認知症と決定づけることはできない』との結果。

車の運転に関しては、認知症と確定すれば医師も強制的に「やめて下さい。」と宣告できますが、父は中途半端な症状のため、宣告はできず医師はこう言いました。

「結果を総合的に見て、今現在、車を運転するのは非常に危険な状態であることには間違いがないです。何かあってからでは遅いので、これを機会にしっかりご家族と話し合い、判断された方が良いです。私は止めた方が良いと思います。」

その言葉は父にしっかり届いたようで、帰宅後、家族会議の結果、父も自分の脳の状態を客観的に知り、権威性のある医師の言葉も大きく影響したことで、運転をスパッと諦めました。

余りにもあっさりとした素直な決断に、家族全員『(゚д゚)!』と言う表情でした。

しかも「運転しない」と決めた後の行動は早く、潔くさっさと車を売ってしまいました。

家族が何を言っても聞かなかったのに、専門家の言葉はまるで魔法のように、いとも簡単に父の心動かすことに…。

そして、「家族の言うことは聞かない。」と言う事実が、浮き彫りになった瞬間でもありました。

しかし、娘の私が「物忘れの異変を事前に察知できていた。」“先見の明”の部分において、きっと信頼を寄せ、「今後は、娘の話を聞こう!」と思ってくれるはず!と考えたのですが、「考えが甘い!」そうは問屋が卸さずに、「家族の言うことは聞かない。」と言う事実は、その後も変わりなくしっかり実行されて行きました。

運転免許返納後の様子

高齢者を守っている絵

無事に免許を返納できて良かったのですが、その後、さまざまな問題が浮かび上がり、私は何度も頭を抱えることに。

普段の生活の中で、かなりの頻度で車を使用していたため、その後の生活が不便極まりないものに変化してしまったのです。

車を使用していた用途

  • 週1回の食料品の買い出し
  • 週2回のドライブ
  • 月1回、母の病院への送り迎え
  • 石油ストーブの灯油缶の買い出し

両親ともに80歳を越えていて、両者とも手足に痛みがあるため、徒歩で買い物に行き荷物を持ち帰ったり通院は不可能なため、上記が一気にできなくなるのは死活問題でした。

そこで重要になってくるのは、家族や地域のサポートと言うことで、近所に住む娘の私がサポートをすることに。

しかし、私は運転免許を持っていないため、「病院の送り迎えとドライブ」を行うことができませんので、病院の送り迎えに関しては、普通のタクシーや介護タクシーを利用することに。

ドライブに関しては、運転の大好きな父、唯一の楽しみである母にとって、免許返納後の精神的には1番大きなダメージとなりました。

父が運転をしなくなったことで、外出機会が減り一気にボケる可能性もあるので、私が免許を取りドライブに連れていけたら…と考えました。

そして、私は2度目の免許取得を考え、教習所のパンフレットをにぎりしめたのですが、若い頃の事故のトラウマで車が恐ろしく、人の運転に身を預けるのも緊張してしまい、乗車すれば猛烈に肩が凝る始末だったので、どうしても運転できる気がせず、またもや断念。

自分の不甲斐なさを埋めるかのごとく、車椅子で散歩に行ったり、仕事をしながらも両親の家に通いできることを頑張るのですが、自分の体に無理や負担がかかってしまい、日曜日には疲れ果て1日寝たきりになっていました。

歳を追うごとに体力は低下し、どんどん辛さが増していくので、「車が運転できればどれだけ楽だろう」と、何度も何度も思いますがやはり恐ろしい。

両親も運転をビビっている私に対し、「取れば?」と言ってくることは一度もなく、もし運転免許を取ったとしても、「横に乗りたいとは思わない」とのことで、本当にめんぼくない気持ちになりました。

父は「100歳まで生きる!」と命への意気込みをメラメラと燃やしているのでなおさらでしょう。

私も、こんなにビビっている運転手に、命を預ける気にはなりませんもん。

なので免許返納に伴い、娘の私は「自分ができることを、出来る範囲で親孝行しながら頑張っていこう!」と決断した時でもありました。若干、言い訳がましい感じもしますが…。

車無き今、父には、身体機能が衰えないよう健康運動器具やパズルや本を、母には車椅子の散歩と脳トレやスクラッチアートなどを用意し、楽しめるよう工夫しながら過ごしています。

高熱によるせん妄をおこす

体温計

運転免許返納後、2年が経過しましたが、父の脳の状態は物忘れは激しいものの、特に変わりはなく過ごせていました。

しかし、父も母も車が頼りの生活だったため、その足がなくなってしまった2年間の生活は、徐々に潤いをなくし心まで枯らせていきました。

父は「運転免許を取り上げられた!まだ運転できたのに!」とブツブツ文句を言い出し、ドライブができなくなった母は表情が暗くなり、文句一つ言わず我慢している状態に…。しかし、遠慮のない父は常に心の声がダダ漏れで、ストレスも溜まらないけっこうな性格です。

そんなある日、父が高熱を出し肺炎で2か月入院することに。

父は40度の高熱に自分で気付いておらず、普通に過ごしていて突然立てなくなり気付きました。

経緯としては、熱を出す前日、平然とご飯を食べTVを見て過ごしていましたが、トボケタ顔つきで同じ行動を繰り返したり、夜中にトイレに間に合わなかったり、探し物を始めたりと異変があったので「認知症か⁉」と警戒していたところ、翌日に立てなくなり起こそうと腕を持った瞬間、その熱さに驚き熱があることに気付きました。

おそらく異変行動から見て、前日から熱は出ていたのだと思います。

この時すでに高熱も自分で判断できないような、脳内状況になっていたと言うことになります。

そして、入院中は熱がなかなか下がらず、「せん妄」と言う呆けたような症状が出て、看護師さんに怒鳴り散らしたり、幻覚が見えると言ったり、かんしゃくを起こし勝手に起き上がるため拘束されていました。

このままボケてしまうのかな…と心配しましたが、3週間ほどでなんとか症状も治まり体調も良くなったのですが、寝たきりだったため歩行困難になり、リハビリ病棟で1ヵ月の厳しいリハビリが始まりました。

私もリハビリに付き合い、歩く姿を録画して本人に見せて励ますと、どんどんやる気が増し回復に向かったのですが、尿意がわからず管を入れたままの生活になっていて、この管が取れなければ退院後は自宅に帰ることが難しい状態でした。

しかし、リハビリの頑張りで歩行機能がみるみる回復していくと、相乗効果で食欲も出始め身体機能が回復!そして、尿意もわかるようになり無事に管も取れ、自宅に帰ることができました。

さすが…「100歳まで生きる!」と宣言しているだけあり、生命力の底力を感じました。

しかし以前の体力に戻すには、まだまだ努力が必要だったので、介護認定調査を受けデイサービスで週1回リハビリを手伝ってもらうことに。

一方、私は両親の病院の送り迎えや介助のため一緒に暮らすことにしました。

この頃の父は、携帯電話をかけられなくなり、病院に一人で行っても医師の説明を理解できなくなっていましたが、会話は普通にできてTVの内容もしっかりくみ取れていたので、脳って不思議だな…と感じていました。

早期発見早期治療の大切さ

病院

父は入院前から持病があり、自分で2つの病院に通院していました。

一つは眼科で少し離れた個人病院に徒歩で、もう一つは呼吸器で総合病院にバスで通院していましたが、入院中に前立腺肥大であることも判明し、泌尿器科の受診も必要になってしまい全て総合病院でまとめて受診することに。

退院後は父1人での通院は不可能になったため、私が付き添うことになりました。

総合病院の受診は3ヶ月に1回だったので、母の1ヶ月に1回の受診と合わせても、私の仕事にそこまでの支障はなく過ごせていました。

そして、肺炎の退院から3ヶ月後、父が指の関節とヒジ、肩、ヒザの痛みを訴えたため、もしかしたら「リウマチ」かもしれないと思い、だとすると通院が増える可能性があるので、総合病院ではなく整形外科を受診察しました。

総合病院に行かなかった理由は、午前診のみのためリウマチまで診てもらうとなると、午前中に4科を回るのは無理であり、2日に分けての受診となると、私は仕事に穴を空ける回数が増えてしまうので、仕事終わりの夕方に受診できる近所の個人病院を選択しました。

そして、私の感は的中してしまい、「リウマチ」と診断が下りました。

リウマチの診察は、初めは投薬の効き目に対し様子を見ながら行うので、マメに通う必要があるのため個人病院にしたことは正解でした。

父は早期発見だったので、リウマチ薬の効果が直ぐにあらわれ、痛みは引き骨や関節が腫れることなく、2年以上経った今もリウマチを抑え込めています。

体力や免疫力が低下すると色々な病気が現れるので、早期発見早期治療が大切だと痛感しています。

リウマチの診断後、認知症のかかりつけ医で受けたテストは、なんと23点に上がっていて、「物覚え」に関する部分が覚醒していて驚きました。

リハビリで体を動かすことが、脳にも良い影響をもたらしているようでした。

アルツハイマー型認知症との診断

アルツハイマー型認知症との診断

それ以降、2年間何度か発熱しましたが、発熱すると言動がおかしくなるので、直ぐに呼吸器科を受診し重篤には至らずに過ごせています。

発熱だけではなく、高齢者は転倒で骨でも折ろうものなら、寝たきり生活になりかねません。

しかし、父は熱もさることながら、転倒もしまくりで肋骨を2回骨折、目の上を切って縫うなどで、何かと病院がつきまといます。

父だけではなく母も体調を崩すので、いつしか私は病院まみれになっていて、そんな生活の中、予防に力を注いでいた私は、いつしか両親の体調の異変にいち早く気付く能力が備わり、早期発見早期治療ができるようになっていきました。

そしてこの頃、父が通っていたデイサービスが閉鎖され通所もやめていて、日常生活では骨折で安静にしていたりと動きが少なくなっていたためか、ボケた行動が徐々に悪化していきました。

下記のような異変が目立ち始めたのです。

  • 通いなれた病院で検査室の行き方がわからなくなる。
  • 起床後、何をすればいいかわからなくなる。
  • 間違い電話を家族と思い会話が成り立つ。
  • タクシーの道案内ができない。
  • かかってきた電話に対応するも、翌日にはいつかかってきたのか分からなくなる。
  • オレオレ詐欺対策の合言葉を覚えることができない。
  • へそくりをしまった場所がわからなくなる。
  • 窓やシャッターの開閉の手順がわからなくなる。
  • 回覧板を回す順番がわからなくなる。
  • 着たこともないシャツを探す。
  • 聞いた会話の内容が混ざり合わさる。
  • とにかくモノをよく失う。
  • モノを探せない。
  • ルーティンが壊滅的。

そこで本格的なアルツハイマーの検査をお願いしました。

テスト(結果12点)とMRI、脳の血流検査で、ようやく「アルツハイマー型認知症の初期段階」と診断がくだされました。

投薬に関しての効果は「本人の行動力や、ヤル気スイッチ次第」な所があり、「本人が活動的でなければ薬は作用しないので、どうしますか?」と言われましたが、できることは何でもやっておこう!と、服用することを選択しました。

父にできる家事を役割分担したり、カラオケが好きなので新しい歌を覚えたり、積極的に外出したり、薬の効果を最大限に引き出して頑張って食い止めてやる!と言う勢いで服用を開始しました。

ここで、またまた月1回通院が増たことで、私は退職を考え始め実際に1年後には退職しました。

再び気付かない肺炎

再び気付かない肺炎

そんなある日、父がやたらに昼寝をするので、「あやしい…。」と思い熱を測ると36.7℃ほどだったので様子をみることに。

すると、しばらくして寝ている呼吸音から、小さくヒューヒューと異音がしていたので、もう一度熱を測ると38度に上がっていたため、かかりつけの総合病院へ。

到着すると熱は37度くらいに下がっていたのですが、血液検査、肺のレントゲン、尿検査なとで、『重度の肺炎』と診断され即入院となりました。

あの小さなヒューヒューとした呼吸音が、まさか重度の肺炎とは思いもしなかったのでビックリでした。

今回は抗生物質がスムーズに効いたおかげで、1週間で退院することができました。

前回、肺炎で入院したときは、2ヵ月かかったので今回も覚悟をしたのですが、あまりにもあっさり治癒したので、拍子抜けしましたが、肺炎ってわかりにくい場合もあって怖いなと感じました。

そして、今回も本人は全く気が付いていなかったので、もう発熱や異変を自分で感知できなくなったのだと確定しました。

父の場合、毎朝のみ検温だけでは不十分なので、今は朝、夕に検温を実施して早期発見に努めています。

そして今、最後の入院から更に1年8ヶ月が経ちますが、それ以降は一切風邪を引くことも熱を出すこともなくなり、アルツハイマー型認知症も進むことなく過ごせています。

異変から5年後

最近、認知症のテストを行いましたが、16点と変わりない状態でした。

私が父の頭に異変を感じてから、5年が経過していますが、その当時と今はさほど変わらずに生活できています。

しかし、アルツハイマー型認知症の進行をゆるやかにするためには、本人の努力とヤル気がとても重要であり、周りの臨機応変な一歩先ゆくサポートも必要になってくるので、家族で力を合わせ日々を重ねることが大切だと感じています。

父の場合、運動をおこたり歩行が困難になってくると、認知機能が低下するようなので、毎日の散歩や新しい歌を覚える、本を読む、できる家事をする、などを必ず行い生活しています。

それが大切であることを本人が一番実感していることがありがたいところです。さすが、100歳まで生きる貪欲精神の底力です。

わがままで頑固な性格は相変わらずですので、「なに!クソー!!」と思うこともしばしばです。しかし、ケンカしながらも「ケンカできる喜び」みたいなものを感じながら生きています。

なにごとも前向きに(^-^)ですね。

以上が、アルツハイマー型認知症、診断までの経緯となります。

あとがき

あとがき

歳を重ねるにつれ物忘れは徐々に増えていきます。「明らかにそれは物忘れの範囲を超えているであろう…。」と違和感を感じた場合、それが認知症であろうがなかろうが、運転している人であれば特に進んで診察を受けた方がいいと思います。

物忘れに気付けるのは、側にいる家族です。

しかし実際、家族と言えど「認知症の病院に行こう。」と誘うのは、そう簡単ではなく躊躇してしまいがちですが、診察してもらうことで今現在の脳の状態もよくわかりますし、今後のアドバイスを聞くこともできます。

何より本人も家族も、「今のままでいいのか?何をすべきか?」という答えを知ることができます。  

私は父が車をぶつけたとき、病院に連れて行って本当に良かったと心底感じています。

長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。(^-^)